独裁政治に性暴力、死刑、浮気、妊娠、流産、拷問、奴隷、飢餓、戦争、自殺、嫉妬、復讐。
一行目からかなりインパクトのある言葉ばかり並んだが、これらは全て、私がアメリカに来てから国語 (以下lit) のクラスでふれたテーマである。
どろどろした昼ドラの内容かと思えるような物語は、どれも『こんなの学校でよんでいいのだろうか』という印象を私に与えた。
しかし、これだけ重みのあることをテーマに選ぶだけあって、litのクラスで学んだことはとても大きく心に残っている。
国語が幼い頃から得意で、日本でもアメリカでも常にトップの成績を維持してきた私が思うに、日本とシリコンバレーの国語のクラスの大きな違いは、『分析』と『教訓』であると感じる。
高校時代を思い出して考えて欲しい。
国語の授業とは、教科書の文書、主に説明文や論文を読み、それを先生が黒板にまとめてくれ、それをノートに取る。そんなものではなかっただろうか。
日本の高校の国語で習うのは、主に文書の分析。
『それ』がさすものは何か、この文のどの部分が接続詞か、
作者はなぜ、とか、この文章と同じことを述べている文を見つける、などを学ぶ。
読んでいる文書が私たちの人生において何を伝えたいのかということより、読解力や分析力、文の構成を見極めて、長い文をどれだけ短く簡潔に理解できるか、に重点を置いているように思う。
もっとも、『この時の彼(登場人物)の気持ちを説明しなさい』なんて、物語を避けがちな高校の授業では数えれる程しか聞かない。
テストでも、まず教科書に記載されてる文書から先生がテスト用に選んだ部分の文章が熟々と並び、その文中には後に質問する時のため、漢字の書き取りや読み取りに使われる単語に線が引いてあったり、空白があったりする。
テスト問題はやはり、
『これ』がさすものは何か、この文のどの部分が主語か、とか、
この文における作者の意見は何か30字以内で説明しろ、だとか、
そういうことになる。
一方でこちらのlitクラスは正反対である。
先生は基本黒板を使わない。生徒は教科書も使わない。
はじめに本を渡され、それを各自で読む。
(クラスによっては全員で読み進める場合もある)
本はほとんどが実際の歴史を背景にした本である。
そのテーマは様々だが、冒頭で挙げたように、かなりディープなものばかりだ。
ちなみに私が今やっているのは魔女裁判とその社会をテーマとしたThe Crucible.
せっかくなのでこれを例に説明したい。
今回の本はクラスで読み進めた。
しょっぱなから森で少女達が裸で踊り、鳥の血を飲むという、なんともまあ日本の学校では取り扱えないような内容である。
The Crucible は劇のために書かれた本なので、ナレーターの部分と登場人物のセリフの二つに分かれる。
まず最初に取り組んだのは、各章ごとのセリフの真意を見極めるということ。
誰がそのセリフを誰に向かってどんな状況の中言ったのか、なぜ言う必要があったのか、彼らが本当に込めた意味はなんだったのか、をプリントに書き留めていく。
日本だとおそらく、各章を読み終えるたびにその章のまとめをして次の章に進むだろう。
これより後は、基本的に、取り上げたセリフやキャラクターの人物像を現実世界に置ける人間の心理や社会現象と比べながら授業を進めていく。
このキャラクターがとった行動の心理は、あの時ヒトラーがとった行動の心理と一緒だとか。これはマッカーシーが取り組んだ赤狩りと同じ現象だ、とか。
The Crucibleは主に人間の最大の弱みである『死への恐怖』と向き合う人々をテーマとし、
生と死の恐怖に直面したら、または他人を蹴落とすことで自分は生き残れるという状況に立たされたとしたら、人はどう行動するか。
そしてその自分が標的にされるかもしれない社会の中で、人はどういう心理と共に生きるのか。
それを見極めて理解することがこのlitのクラスでは目的とされた。
本を読み終わると、テストはあるのだが、内容は以下の通りだ。
まず、テスト用紙に本から抜粋された文章は含まれていない。
本の内容は自然に覚えてしまうほどクラスの中で同じところを何回も深く掘り返す。
質問は半分以上が選択問題。
孫が26人いたのは誰か、など本の内容を知らないとわからないようなことばかり聞かれる。
その後はセリフ問題。
クラスで各章からいくつかのセリフを分析したのと同じことを自分でやる。
セリフ問題はいくつか先生がテスト用紙に提案しており、その中から自分の分析できそうだと思うものを指定された数選ぶ。
誰が誰にいつどこで、何を意味してそのセリフを言ったのかまとめる。
文字制限はない。
最後にエッセイ。
といっても、サラッと書く作文のようなものなのだが。
本の中から自分の覚えているセリフを一つ選び、そのセリフを通して作者は何を伝えたかったのか、適当にまとめる。
このエッセイはほんの30分程度で書き終える必要があるので、あまり考えずに書く。
サラっと書けない『本気のエッセイ』はこの後である。
本の内容からかけると思われるエッセイのお題をいくつか提示され、その中から好きなテーマを選ぶ。
これから書くエッセイはエクゼキュティブエッセイ、つまり上級者向けである。
まず、自分がこのエッセイで述べたいことを文にし、それを支持できるように物語の中の状況とリンクさせ、エッセイを読む人を物語の中の世界へと引き入れる文まで考えないといけない。
それを三つの本文へとつなぎ、大きな三つの本文それぞれ一つずつにつき二つ、自分の主張が正しいと証明できるセリフを挿入する。
そのセリフも本から抜き出すだけではなく、セリフに含まれる言葉や作者の本意をうまいこと文章に刷り込ませないといけない。
計六つのクオートを文にまとめ終わったところで
それを自分の主張につなげ、終わらせる。
アメリカのエッセイは基本的に、
『この本はこういうことを言いたがってる。なぜならこうで、こうで、こうだから。』
『最初に。。。』『次に。。。』『最後に。。。』
『これらを踏まえると、こうこうこうで、ね、やっぱり最初に言ったことあってたでしょ?』
という構造だ。
これができて初めて一つの本が終わる。
たった140ページくらいの本だが、まるまる3ヶ月かかる。
アメリカのlitでは、文の構造や新しく出てくる単語の意味を知ることよりも、この本を書いた作者はどんな時代背景にありどんな考えを持っていたのか、私たちに何を教えたいのか、筆者が伝えたい教訓を生徒がしっかり受け取ることに焦点を置かれる。
日本の国語の授業において、生徒はあくまで『視聴者』であるのに対し、litの生徒はまるで『探偵』のようである、と強く思う。
litのクラスの最大のメリットは、登場人物のとる自然行動の中から、いろんな人と関わっていく上で使えるライフハックのようなものを授業が進むにつれて理解できる点である。
そして、それが理解できるようなっているころには、自然に読解力や文章構成の分析力もついてくるのである。
活字好きの私にとってlitの授業は、
夏の暑い日に飲む冷たぁいカルピスソーダのような、すこし刺激的で、だがしかしスッキリとした潤いをくれる最高な国語の勉強方法なのである。
Caliɟoɹnia living の関西人。Steve Jobs の母校に通う、高校3年生。世界の目から日本を見たいという欲求に駆られ、2014年夏に大阪にあるインターをやめ渡米したのにも関わらず、すでに約五年分くらい、いやそれ以上?!のアメリカンライフをエンジョイ中。夢はなるべくたくさんの人と出会い、そこから学ぶすべてを日本に反映させること。そしてその出会った人みんなを笑顔にすること! Silicon Valleyのhigh school lifeを熱々のままお届けします!!
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