日本人として世界で勝つため常に挑戦したい〜ある日本人女性に出会って〜前半

日本人として世界で勝つため常に挑戦したい〜ある日本人女性に出会って〜前半

12053213_1073899375953945_516561840_nビジネスの聖地シリコンバレーで、ペイパルやGoogle、 Androidを生み出したインキュベーター・アクセレレーターPlug & Play。ここでは3ヶ月に一度スタートアップによるエキスポが開催される。この熱い1日の終わりには軽いパーティーが開かれ、参加者、主催者、投資家等がコミュニケーションを図る。そこで出会った高野有美さん。彼女はこのPlug & Playにインターンシップをしている日本人学生だった。キラキラと輝く瞳で仕事の内容を語る彼女に惹かれ、インタビューさせていただく事になった。この地でインターンシップの権利を得る事ができ、一見順風満帆に見えた彼女にも、大きな挫折があった。その人生の壁をどう超えて来たのか、彼女の生い立ちから迫ってみた。

生い立ち

1992年 越谷生まれ 恵比寿の幼稚園に入園後、4歳より白金インターナショナルスクールに通う。耳がよかった為、発音も聞き取りもレベルが高く、アメリカのディズニーランドで迷子になった時にも通用した。

その後医学部を目指し、通塾しながら4教科を勉強。区立の中学校へ入学。当時珍しかった公立中高一貫校、九段中学(現在九段中等教育学校)で三年間の義務教育を終了。自身の親も親族も医師だった為、自分は幼少期より医者になるものだと思って勉強してきた。その後、彼女は医者の道とは違う選択をする事になる。

質問)いつ頃から留学したいという気持ちが高まりましたか?

中学に入学した当初の英語のレベルはアルファベットからのスタートだったので、英語はすぐに得意教科となりました。中学では英語の塾でTOEFL対策をし、中学3年で英検2級合格。勉強を進めるうちに、自分の英語の吸収力が良い事に気がついたのです。姉の留学も引き金となり、そのまま九段高校進学ではなく、留学したいという気持ちが高まりました。

質問)なぜ進学先に公文国際を選んだのですか?

夏休みにスイス公文国際のパンフレットを父親からもらった事がきっかけで、さらに留学への気持ちが固まっていきました。

質問)その後横浜会場で中三の冬に受験し、無事合格されたそうですが、スイスに行って何か変化はありましたか?

スイスに渡ってからも、目標は日本で医者になる事でした。ところが現地で学ぶうちに、他の選択枠もあるのだという事に気がついたのです。きっかけは高校2年生の進路相談。2年生からはACP(American College Program)とJCP(Japanese College Program)コースに分かれており、海外の大学を希望していたのでACPコースへ進みました。当時はまだ医学部を希望していたのですが、金銭的に厳しいという事実も分かっていました。この進路相談で、医者じゃなくでもいいのだと気がつき、10歳からの夢であった「医者になること」から「世の中に必要とされる人材になりたい」という夢へ変わったのです。思いついたのがコンピューターサイエンス。パソコンを使って、ソフトウェアがどのように動くのかを勉強すればいいのだと安易に考えていましたね。

質問)大学を決めたきっかけは何ですか?

大学進学を考えたとき、Amazon, Microsoft, Boeing本社などがあるシアトルを検討。昔短期留学した事のあるカリフォルニアとは違う場所を探していました。

質問)そして念願のシアトル大学へ入学された訳ですが、どのような学生ライフでしたか?

メージャーはComputer Science with Specialization in Business。大学では寮に滞在していました。3年生まで2〜4人でシェア。アメリカ人だけでなく、色々な国の方と一緒に住んでいました。

実は3年生のCSⅡの期末テスト前日に強烈な腹痛に襲われテストを欠席することになりました。涙ながら腹痛に耐え日本にいる父に電話したところ、盲腸の可能性が有ると言われたのです。結果的に盲腸だったのですが、とりあえず2日後帰国するまで我慢して、日本で手術を受けました。翌学期となり、何とか気を取り直して同じ教科のテストを受ける為、毎日8時間以上勉強をし、ご飯を食べる事すら忘れるくらい集中して頑張っていました。いよいよ迎えた期末テスト当日。1問目を見て全く解けなかった時に、心がボキっと折れてしまったのです。目の前は真っ白。私には一生手をつけられない問題なのだと自覚しました。『頑張って勉強すれば努力は報われるのだ』という気持ちのみで幼い頃からガリ勉だったのに…。限界を見てしまったんですね。

質問)帰国しようとは思いませんでしたか?

このとき帰国する事は考えていなかったですね。3年間自力で頑張った努力がゼロになると考えると死んでも帰国したくなかったのです。そんな自分は嫌だったんです。何より今まで何も言わずにサポートしてくれた親に対する申し訳ない気持ちがいっぱいで、父親に電話しました。「本当にごめんなさい。こんな事になってしまって。」って涙を流していましたね。そして色々話をして、しばらく休憩が必要なのかもしれないという気持ちに変わりました。

つづく